子どものころ、川などで小動物を探していたのを思い出すと、生き物を発見するときに重要なのは環境の中で背景から遊離している、しばしばそれだけで完結している形を発見する能力だった気がする。一番単純には左右対称なものだ。逆光になった夕方、浮遊物に紛れて水面からわずかに出ているカメの鼻先とか、泥の体積した水底の物陰からわずかに除いているカニの触覚とか、地面の砂利や樹皮の凹凸にじっと紛れている小さな虫の輪郭とか。相手がじっとしているときには、原始的な狩猟で森に紛れた動物を見つけるのも似たようなことではないかと思う。

なぜ対象を見出す前にその対称性に気がつくことができるのか。人間には無秩序な紋様から目と口でできた顔を見出してしまう「能力」があるといわれるように、おそらく意識下には左右対称の物体に反応する脳のはたらきなり部位なりがあるのではないかいう気がする。いわば、文脈から遊離する距離を私たちは奥行きのようなものとして感じることができる。大方の生物は、少なくとも形態上は一個に完結して存在している。保護色を徹底しようとすれば左右非対称な紋様を身につければよいとも思えるが、生物がかならずしもそうではないのはおそらく発達の機構などの理由があるのだろう。

その点でいえば、左右対称の建築の外観のはたらきとはそれ自体の中心性や集中性ではなく文脈から遊離する自律性、対象と背景に生じる奥行きのような何かになるはずである。だから他から区別し、輪郭を定めて建築とよばれるようになるものが、そもそも左右対称なものに始まっているとされてきたのはおそらく当然といえば当然に過ぎる。ところで、人工物の歴史でいえば線・面・点的対称性はどのようにいつごろまで遡れるのだろうか?