故郷を持たない者にとって、あるいは少なくとも patri- つまり父祖の、という階梯を遡行してゆく意味も記憶も欠いた幼年期の土地しか持たない者にとって、ノスタルジーとは何かへの追慕ではなく何かへの追慕への追慕となる。少なくとも私はノスタルジーという言葉をそのような意味で使っている。 傭兵として諸国へ四散したスイス人が mal du pays つまり帰郷が唯一の治癒となるような痛みを抱く、そうしてアルプスという悪所さえもが憧憬の対象となる、という話は(出来すぎているような気はするが)それなりに興味をそそる。経験は地形をなぞり、記憶の最下層には地表の刻印があって特有の土や草木の香りが漂っている。故郷の遠さは地形に結びついている。だから全ての故郷には地形があるべきなのかもしれない。 だが私が郷愁と呼ぶのはそのことではない。私がノスタルジーと呼ぶのは、たとえば飛行機の中でふと目を覚まし、眠たげな顔を反射させる樹脂製の窓に顔を寄せ、雲間に横たわる見知らぬ都市を見出して、その夜の街に転々と連なるナトリウム灯の間の暗さを、その中にふと緩やかに動き出す一対のヘッドライトを見出したときの感慨のことだ。あるいは、冬季休業の集客を当て込んだ、幼児が嬉々として見つめるような他愛のない「家族向け」映画を鑑賞した後で人目を憚らず涙を流し、そのことについて何かを考えようとする感情のことでもある。あるいは、もっと端的に、クマのような毛深い大きな動物への愛着について考えることだ。 つまりそれは失われてさえいない、というよりも、未だに知りもしない何者かに抱く愛惜のようなものだ。そんなときに私は、金属を切削した屑をやわらかな衣服に引っかけてしまったときのように、私とは無関係な物事が不意に引き起こした内心の撹乱を、指先でできるだけ丁寧に押し戻そうとする所作のようなものを自覚しながら、自らが未知の冷やかな表面のごく近くに存在していることを知らされている気がする。

あるいは、そう思い込もうとしている。