映画

旅の途中でサラエボに少し空けて二度滞在することになり、二度目にちょうどサラエボ映画祭の開幕に居合わせた。 最初の二日だけだったが予定の合間に四本だけ観た。街はお祭り気分で、目抜き通りは夜通しにぎやかだった。映画祭は全体的にフレンドリーで居心地がよかった。どこから集まったのか、その一週間ほど前に泊まったときには見かけなかったようなおおぜいの若いボランティアが観客に対応していたのが印象的だった。

プログラムは基本的には旧ユーゴ圏、バルカン、東欧の作品の紹介に重点をおいているようだった。地域史に主題をとったドキュメンタリーが充実している印象があり、英語字幕で観られる機会は多くはなかろうと思い時間的に観られるものを二本観た。一本目はバルカンからNBAを目指す若者についてのテレビ用に制作された作品。旧ユーゴの寒村出身の若者がNBAでドラフト指名を勝ち獲り一夜にして成功者になるという、この地域のひとつの典型的な「夢」を追う内容で、旧ユーゴ圏のバスケットボール指導は軍隊的なので、プロになっても監督の作戦を忠実に実現する選手が育つという話があった。二本目に観た『スルベンカ』(Nebojsa Slijepcevic, Srbenka)はクロアチアに暮らすセルビア系住民にまつわる事件を題材にとったもので、打ちのめされるものがあった。あとはオープニングのパヴェウ・パウリコフスキ『Cold War』と、コンペティション・プログラムのポール・ダノ『Wildlife』。この二本はメイン会場の野外上映で。

 

あとは機内でウェス・アンダーソン『犬ヶ島』、『The Commuter』(リアム・ニーソン)、スピルバーグ『レディ・プレイヤー・ワン』など。

ガンダムはまったく観たことがないにもかかわらず『レディ・プレイヤー・ワン』の「おれはガンダムで行く」という日本語の台詞に素直に感慨を覚えてしまう。子ども時代、家にはファミコンも無かった(そもそもテレビもなかった)ので、ヴィデオゲーム的なもの、ガンダム的なものは直接の郷愁の対象ではなく勝手に感傷を覚えているだけだ。『ピクセル』(2015)や『レディ・プレイヤー・ワン』といった映画に臆面もなく感動できてしまうのは、(少なくとも自分にとっては)どちらも映画内ゲームがフィクション内のフィクションとして郷愁を物語的に構造化しているからだろう。我々はありもしない過去への憧憬を、あるいは追慕への追慕をノスタルジーと呼ぶのだ。

そういえば『スルベンカ』はある歴史的事実を起点とする作品で、映画はその事件を再現する芝居の稽古を記録したドキュメンタリーという構造になっており、観ている者は演者たちとともに事件の再現に居合わせているというある種の当事者性を強く喚起される。最終的に観る者は一人の少女の内面の動きをほぼ完全に予測しながらラストシーンを目撃し、彼女の情動を我がものとして追認することを通じて自らもその事件を内面化していることに気付くのだが、たまたまサラエボにいた私は、映画が終わって暮れ始めた街へ出るとき、それがまさに足元に触れる土地の終わることのない歴史と地続きであることを「思い出して」いたようだった。

『ユリイカ』9月号に寄稿した。濱口竜介について。サラエボでも校正をしていた。旅の間もなるべく走るようにしていたが、サラエボでゆっくり走る時間がなかったのが心残りだ。

音楽

Jóhann Jóhannsson / Orphée (2016)